過去世 最期に報われる人生
過去世 最期に報われる人生
私は日常の霊的知覚向上のトレーニングの1つとして、1日1人、知人や有名人の過去世を拝見しています。
過去世は無数に存在しますが、私が拝見するのは、その方の現在の状態に最も影響を与えている過去世です。
それはつまり、今知る意味のある過去世です。
知ることにより、何か今の状況を現実的に良い方向へ切り替えるヒントを得ます。
単に過去世を知り、
例えば「私は過去世でどこぞの王子だったんだ〜。」だけで終わったとしたら、その過去世を知った意味がない。
ですので過去世を知るからには、
その過去世と今世に共通する、あるいは繋がりのある、葛藤や学びのテーマ、そうした本質的な意味まで深く読み取ることこそが大切だと思っています。
それでは、私がこれまでに拝見してきた過去世の1つを紹介します。
ある友人の過去世
1800年代、イタリアのヴェネツィア
紫色のドレスの貴婦人が、黒い馬車にエスコートされ乗ります。彼女がこの友人の過去世の姿です。幼い子供の兄弟も一緒に乗っており、物珍しげに窓の外の景色を眺めています。
ドレスの彼女は兄弟を見て優しく微笑みますが、少し儚げな表情です。
これはヴェネツィア郊外の別の町からヴェネツィアへ戻るシーンで、兄弟は彼女の実の子ではなく、他人から引き取った子であるようです。
この2年前、彼女の実の子は生まれてすぐに亡くなってしまいました。
毎日のようにその子の墓に足を運び、深い悲しみに沈んでいます。
その悲しみから立ち直ることができず、灰色の時間だけが淡々と過ぎていく。
生きる希望を見失った彼女を見かねた周囲の人たちが、孤児を引き取り育てる事を提案したのでした。
やっとの事で、彼女は前を見る決心をし、この兄弟を引き取ることにしたのです。
まだ幼く、世界を純粋な目で見る兄弟は、彼女の止まっていた時間を無理やり動かします。
子育てというのは、いつの時代にあってもバタバタなのです。
しかし、彼女の心には常に葛藤がありました。
もしあの子が生きていたら、、
もしあの子が大きくなっていたら、、
こんな風に走り回っていたのだろうか、、
笑っていたのだろうか、、
どうしても、兄弟の姿に実の子を重ねてしまいます。それはとても複雑な葛藤で、理屈ではないその感情を上手に吐き出す事もできない彼女は、心の内側で苦しみ続けました。
しかし同時に、実の子を育てられなかった想いを胸に、この子たちはちゃんと育てる!という決意も固く、必死に育てました。
そして時は経ち、様々な苦労や幸せを経験しながら、兄弟は2人とも、立派な青年へと成長したのです。
その頃、彼女は病に侵され、ほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになっていました。
程なくして、自らの手で立派に育て上げた兄弟に看取られ、優しい時間に包まれながら、天命を全うしました。
最期の日々に想ったことは、
「大変だったけど、この子たちをここまで育ててあげられて、本当に良かった」
そこには言葉にできない、温かさがあるだけでした。
きっと、実の子にも再会できた事でしょう。
いかがでしょうか?
私には子育ての経験がないので、彼女の葛藤や苦しみを全て理解するのは難しいです。
しかし過去世を見るとは不思議なもので、彼女の感情や葛藤、思考、またその場所の空気や香り、触った物の感触、食べた物の味、時には肉体的な痛みなど、
彼女に乗り移って追体験しているように、リアルに感じるのです。
彼女が苦しむシーンでは、本当に苦しくなります。
しかし最期に彼女が感じた言葉にできない感情には、心が洗われました。
彼女の人生全てを通じて知ったもの、悟ったもの、言葉にできない温かさ。
これが、愛、というものなのかもしれませんが、言葉にした瞬間に何か違う、薄っぺらいものになってしまうのです。
ここに見えない世界の本質の一端があるのだと思います。
過去世のテーマ
さて、この過去世における本質的なテーマは、「母性」と言えるでしょう。
母性とは、
認め、受け入れる、優しさ、育てる、
などといった要素で、男女関わらず全ての人の心の中にある受容の要素です。
過去世の彼女は、
我が子を亡くす、という受け入れ難い状況に少しずつ向き合い、引き取った兄弟を育てる、そうして外の世界や置かれた環境、そして自分と自分の人生、全てを最終的に受け入れました。
もちろん父性と母性は常に関わっているので、母性が全てだとは言えませんが、
しかし数ある過去世の中から、この過去世を見るということ自体が、今世の友人の今のテーマが母性を知り深める事である。というメッセージを含んでいます。
先日その友人と話した際、私はこの過去世の事を彼には話していませんが、
彼は現在の仕事の中で、いつか後進を育てる教育者になりたいんだ。というような事を話していました。
母性のテーマにおける受容とは、
周囲の環境を受け入れるのもそうですが、最も大事なのは、自分を受け入れる事です。
自分というものを掘り下げ、知り(何が好きで嫌いか?何が得意で不得意か?感情や思考の癖は?そんな自分に何ができるのか?何をしたいのか?など…)
そんな自分の長所も短所も認め、今の自分を受け入れてあげます。長所は短所にもなり得て、短所は長所でもあります。
そうすると、自分に対する自己愛や優しさを、自分で湧かす事ができるようになります。
(愛情は外に縋り求めても満足に手に入りません)
まず己の内を温かく満たす事ができてから、外側の環境や他人を認め、受け入れる優しい器が広がるのです。
こうした母性のテーマを、私の友人は今世でも学ぶようです。特に育てる事を通して、内なる母性というものを知っていくのでしょう。
過去世では2人の男の子を育てましたが、
今世においては、さらに多くの人と出会い関わり育て、そんな自分を受容していく。
そうして学びながら自信をつけ、結果的に多くの人を包む事ができるのだと思います。
「育てる」という1つのテーマから、人は本当に多くのことを経験し、学び、幸せを感じる事ができるのですね!
まずは自分に対して優しくなる。
(もちろん、ありのままの自分!自分を受け入れる!と無理して気負う事とは違います。)
まだまだ未熟で育て甲斐のある自分であってもいい。本来人はみんな神聖なのですから。
完璧というものは存在しませんので、歳を重ね様々な事を学び理解できるようになったとしても、その先にあるのは、また新たな事と向き合い思考錯誤している自分です。
そうした永遠に未完成でいるあり方自体が、ある種の完璧なのかもしれません。
自分という存在と真摯に向き合い、先祖と自分自身に恥じない自分でありたいものです。
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